暁烏連理紅薊 (お侍 習作66)

       〜 お侍extra  千紫万紅 柳緑花紅より
 



          




 その身を風にと変える勢いで、夜陰の中、翔って翔って。自分の中の時間は凍りついたようになったままだが、実際の時間経過はいかほどのものか。あまり奇を衒った策は敷かなんだから、そうそう無駄に潰えてもいなかろうけれど、身動きままならぬ身の勘兵衛を、已なきこととはいえ置き去りにした判断、果たして吉と出るか凶と出るのか。
「…。」
 林の中が妙に静まり返っている。此処は相手の陣地内と見てよく、島田は此処で相手をせねば、こやつらが宿場までなだれ込みはしないか、ばらばらと忍び入ってのやはり騒ぎとなるのではないかと恐れての、太刀を抜いての抗戦の構えを取ったらしいが、
“…。”
 それにしたところで、街道からこんな狭隘なところへと誘い込まれてどうするかと、月光の白銀と夜陰の藍とでまだらに塗り潰された木立のあちこち、見落とさぬようにと眸を配りながらも、毒を吐くのを忘れない。決して傲慢にも驕ることはない連れ合いだが、流れに逆らわず、それさえも反撃の足場にするような、経験を下敷きにした粘り強い戦いようには、時折腹立たしくなるほどハラハラさせられっ放しであり、
“いっそ…。”
 まず最初に島田を畳んで大人しくさせてから、一気に自分が相手を平らげての方をつけた方が精神衛生上は善ろしいのかも知れぬと、いささか物騒なことまでもを思ったところで、

 「…っ。」

 最初に彼のその身が頽れたところ。月の光の溜まりになっている、桐であろうか堅そうな木の根本にて、見慣れた男が見慣れぬ姿で蹲
(うずくま)っているのを見つけた。
「…。」
 毒が回らぬようにとあまり動かずにいたらしく、それでもその周辺に倒れ伏す屍の数は相当なもの。とうに仕舞っていた背中の刀を再び抜いての、もう一仕事をせずともいいのは助かったが、その代わり、彼の経過が気になるというもので。
「島田。」
 辺りへ注意を払うことも出来ぬほどなのだろう、地に手をついてのじっと蹲ったままの勘兵衛であり。こちらが掛けた声へも反応を示さないことが、久蔵の背条を冷え冷えと寒からしめた。足早に近寄って、すぐ傍らに屈み込めば、
「…っ。」
 一瞬 総身がこわばったような気配がしてから、だが、細く吐息をついて。長い蓬髪の陰からこちらへ顔を向けてくる。
「…久蔵、か。」
「…。」
 頷いて地についた手を見やる。そこを切られたのか、手首の上にもう固まりかかった血の線が見えて。そのすぐ上に刀の提げ緒をきつく巻いての縛り上げており、それでも間に合わなかったか、顔色は蒼白でうっすらと脂汗までかいているのが痛々しい。そういった様子を余さず見回しながらも手は止めず、
「これを。」
 栓を取った小瓶を口元へと押しつけると、
「…。」
 刹那、少々戸惑うような眸をしたものの、特に抵抗することもなく、口を薄く開いたので。そこへと少しずつ傾けて、中の液体を全て飲ませる。よほど苦いか眉を寄せたが無事に飲み下したところで、
「…。」
 こんな場所にいては別な狼に嗅ぎつけられぬとも限らぬと。まだ意識のあるうち、その身に力の入るうち、此処から離れるぞと言って示すその代わり。腋窩へ腕を延べ入れて支えるようにし、相手の重心を読んで ぐいと一気に引っ張り上げる。意が通じたか、何とか膝は折れずに立ち上がれた島田を、そのまま支えての歩き出し、先程の帰途に庇が見えた、朽ち掛けの祠を目指して歩みを進める二人である。





            ◇



 辺境地の州廻りの役人らにも顔が知れ渡っているほどに、今や怪しい懸念を抱かれるような危なっかしい身の上ではないのだから、そのまま宿場へ向かって真っ当な手当てとやらを受けても良かったが。

  “効き目の確かだろう薬は投与したのだ。”

 それ以上に打つ手はなかろうし、何よりも…このような容体に陥った勘兵衛の姿を他人に見せたくはないと、どうしてだか強く思ってしまった久蔵であり。宿場が間近いせいか、古くて守り役なぞも置いてはないながらも、社にはきちんと手入れが入っているらしく。廻廊や格子、本尊を収めた御堂の中の床板や調度などは綺麗なものだ。
「…。」
 横手の壁に開けられた連子窓からさし入る月光が、床に描いた白い四角を避けての位置まで上がり込み、そっと支えの腕から力を抜けば。すっかりと疲れ切った様子にて、堅い床へと倒れ込んだ勘兵衛であり。自分よりも大柄な彼へ、仰向けになれと手を掛けて身体の向きを直してやり、佩
(おび)を緩めての前の合わせを少しほど開いてやり、さて。周囲を見回すと、人の等身大ほどの本尊像と目が合った。木彫りの簡素なそれだったが、なかなかに暖かいお顔をしており、
「…。」
 きっと慈悲深い仏であろうと判断し、一礼を捧げてからあちこちを見回して。須弥壇の上、錦の織物を引き剥がすと埃を払ってから掛け物に使うことにする。手ぬぐいに持ち合わせていた竹筒の水筒から水を染ませて、苦しげな表情を隠さない勘兵衛の額へ載せてやり、
“確か…。”
 高熱を下げたければ、喉や脇、肉の薄いところを走る動脈を冷やすといいと、
“…。”
 いつぞや七郎次がやはり高熱を発して倒れた折に覚えたことだ。忘れるはずのない処置を実行に移そうと、別の手ぬぐいを濡らし、堅い襟を避けての首へと宛てがえば、
“…熱い。”
 指へと直に触れた相手の肌の、何と熱いことかと気づいて息を飲む。瞬発性の高い筋肉は熱を帯びやすいというし、日頃からも平熱が低い久蔵より多少は暑苦しい温みを保っている勘兵衛でもありはするが。普段のそれは心地いい温みとは掛け離れた熱さに、思わずのこと眉が寄った久蔵で。とはいえ、
“解毒剤は飲ませたし…。”
 持ち合わせがあったとしても余計な薬は飲ませぬ方がいいと、確かどこかで聞いたような。

 『熱というものは、その制御をかき乱す毒があっての出るものではない。
  大概は、体内へと侵入した菌や毒素を死滅させてしまおうとする、
  当人に備わった治癒能力の反応・対応にて上がるもの。』

 『多量の失血は体温の低下を招くから、
  多少の熱が出ても身体のほうは暖めてやらねばならぬ。』

 ああそうだったな。あの戦さの最中、そういった知識を様々に、確かに身につけたはずだった。もっとも自分へと用いた覚えはなかったし、同輩たちもその殆どが、そんな手当てが間に合うような死に方はしなかったけれど。

  「…島田。」

 こんなに胸が詰まって痛いのは、何年振りに味わう想いだろうか。神無村で七郎次が倒れたときも、こんな風に生きた心地がしなかったな。この身はどこも傷めてなどいないのに、気持ちが締め上げられてのきゅうきゅうと、胸や喉奥が辛くて辛くてたまらない。鼓動も速まっているし、何より…この息苦しさと背条が泡立つような感覚は何なのだろか。ほんのついさっきも、あれほどの夜盗を誰彼という区別なく切り裂いて来たというに。たった一人の命の灯火の行く末を思うだけで、こんなにも切なく胸が痛む。これが別の誰かなら、手は施したのだ大丈夫だと割り切っての落ち着いて、泰然と見守れもしたろうに。大切な人、何物にも替え難い存在というものは、こんな時はこんなにも、心を不安で揺らしてくれるものなのか。
「…。」
 重たげに刻まれる呼吸が気になって、引かない汗が不安で不安で。今からでも宿場へ運ぼうか、いやいや もはや動かさぬ方がいいのかも。そんな躊躇に気持ちが揺れる。やれることは全て尽くしたのに。後は本人の体力に任せ、付き添う者は見守るだけだと、頭では判っているのに。居ても立っても居られず、どうにも落ち着かなくてしようがない。すぐ傍らに四角く座したまま、苦しげな呼吸を続ける精悍なお顔を見やっておれば、
“…え?”
 熱を逃がすべく肩口はずらしてあった上掛けから、いつの間にか大振りの手がこちらへと伸ばされていて、
「何だ? 水か?」
 聞こえるかどうかも判らないながら、どんな奇襲にも動じない久蔵が、焦りから声が裏返りそうになりながらも返事を待ち受けたものの、
「…。」
 やはり意識はないものか、答えは返って来はしなくって。ただ、

  「…島田?」

 額から横手へとずれ落ちた手ぬぐいを、拾ったついでに新しい水で冷やしての戻してやれば。その手を掴まれてしまい、しかも離そうとしない。しかも、こらこら離せと振りほどこうとしたところ、意識がないとは思えぬほどの、物凄い力で握り返して来たため、少々焦った久蔵だったが、

 「…そうか。」

 ああそうだ、自分の手は冷たいから気持ちがいいのかも。そんな風に想いが至り、そんなに欲しいならくれてやるとばかり、もう一方の手も、こちらは首元へと添えてやる。少々不自然な、中途半端に身を乗り出したような姿勢になるので、このくらいは許せとその分厚い胸板へ頬を伏せての、奇妙な格好の添い寝になれば、

  ――― とくん、とくん、と。

 ああ、鼓動の音が響いてくる。規則正しく聞こえてくるから、さほど案じることもないかなと、やっとのことでこちらも落ち着いた久蔵だったが、

  「………………。」

 どうしたことか、肩口が寒い。二の腕も背条も寒くてしようがない。そろそろ季節は初夏へと向かわんという頃合いだってのに、陽がおちれば風も涼しくて心地がいいと、ほんの数刻前にこの髭の壮年が言ったばかりだってのに。

  「…手だけでは足りぬ。」

 いつもいつも、その懐ろへと招き入れてくれるのに。南方の暑い夜でも、むずがる久蔵を宥め賺しての結局は、腕の中へと掻い込んで眠る勘兵衛であり。そんなせいか、寒いという感覚をこのところのずっと、忘れていたらしい久蔵で。


  “もしもこのまま…。”


  彼が…勘兵衛が、目を覚まさなかったなら?






  「…おい。」



  「おい。勝手は許さぬからな。」


  「まだ約定は果たしておらぬぞ?」


  「勝手に、ゆくな。」





  「勝手に、俺を、置いてゆくな。」





 聞こえておるか? おい…と。乾いた夜陰に吸い込まれてゆく端から。まるで子守歌でも紡ぐかのように。恨み言とも、はたまた睦言とも取れそうなお言いよう。綿々と連ね続けた双刀使い殿が、果たして夜陰の節目を一体どこまで数えての覚えていたやら。







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